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中村研一と中村琢二兄弟について

最終更新日:
(ID:7879)

 中村研一と中村琢二は、いずれも日本の洋画に大きな足跡を残した宗像出身の画家兄弟であり、父の実家がある宗像郡南郷村(現・宗像市原町)で少年時代を過ごしました。

出身は同じでも、早熟の天才型の研一に対し、大器晩成型の琢二、さらには、正確なデッサンと線描に基づき、光と影のコントラストを明確に表現することにたけた研一に対して、透明感のあるみずみずしい色彩でやわらかな描写を魅力とする琢二というように、生まれもった性格や作風には大きな違いがあり、それが二人の個性を際立たせています。ともに帝展や日展、一水会展など官展系の団体で活躍して、写実絵画の本道を歩み、近代日本美術のアカデミズムの形成に大きな役割を果たし、兄弟そろって日本芸術院会員に推挙されるという栄誉に浴しました。(福岡県立美術館レター「とっぷらいと」より)

 

 

中村研一(1895-1967)について

 中村研一「日本海沖ノ島」

  • 中村研一「日本海沖ノ島」



中村啓二郎の長男として、明治28年に宗像市南郷村で生まれました。幼い頃の研一は成績優秀。小学校時代は学級委員長も務めました。その後、東京美術学校西洋画科に進み、岡田三郎助に師事しました。大正末から昭和初めにかけてはフランス・パリに6年間留学し、帰国後は帝展、文展、日展、光風会展等で活躍しました。

  作品としては、人物画を中心に静物画、風景画も手掛け、堅実・明快な写実を重んじる画風で画壇をリードしました。戦中は、軍の委嘱を受け戦争画も制作し、戦後は、日展等において運営・改革の指導的役割を果たし、美術界の発展に大きく寄与しました。

 研一は、その堂々たる風貌から一見豪放であるかと思われがちですが、外見とは違って、繊細な感性の持ち主でした。特に、趣味の焼き物での彼の作品は、専門家の陶芸家でも及ばぬ代物で、芸術家としての優れた才能と勘を見出すことができます。

また、研一は故郷をこよなく愛し、彼の遺言どおり、研一の遺骨はここ宗像に眠っています。

 

  • 中村研一の略歴

明治28年(1895) 中村啓二郎・トメキの長男として、宗像郡南郷村に生まれる

同  31年(1898) 父の東京転勤により府下牛込に移る

同  32年(1899) 両親のもとを離れて、南郷村の祖父母のもとで暮らし始める

同  35年(1902) 宮田村尋常小学校(現南郷小学校)入学

同  39年(1906) 東郷高等小学校(現中央中学校)入学

同  42年(1909) 県立中学修猷館(現修猷館高校)入学

                   児島善三郎や太田清蔵らのパレット会に入会、絵画研究を志す

大正 4年(1915) 岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所に入る

同   5年(1916) 父から代々木にアトリエを新築してもらい居住

                   東京美術学校西洋画科本科に入学、岡田三郎助の教室で学ぶ

同   8年(1919)光風会展に「お茶の水風景」を出品、初入選

同   9年(1920)帝展に「葡萄の葉蔭」を出品、初入選

                   徴兵検査に合格、小倉の野砲連隊に入隊

同  10年(1921)帝展に「涼しきひま」出品、特選受賞

                   病気のため軍隊を除隊

同  12年(1923)フランスへ留学。6年にわたりサロン・ドートンヌに出品

                   滞在中モーリス・アスランと親交を結び、作風の上で強い影響を受ける

昭和  3年(1928) 帰国。帝展に滞欧作「裸体」を出品、2度目の特選を受賞

昭和  4年(1929) 中村富子と結婚

          帝展に「若き日」出品、3度目の特選を受賞

同   5年(1930)帝展に「弟妹集う」を発表、帝国美術院賞を受賞

同   6年(1931)帝展審査員をつとめる

同   8年(1933)光風会評議員となる

同  11年(1936)文展審査員をつとめる

同  12年(1937)新文展審査員をつとめる

                   英国女王戴冠式を祝う大観艦式に参加する軍艦「足柄」に同乗

同  17年(1942)従軍画家としてインドシナを旅する

                   新文展に「安南を憶ふ」を発表、昭和奨励賞を受賞

                   大東亜戦争美術展に「コタ・バル」を発表、朝日賞を受賞

同  20年(1945)茨城県沢山村の知人宅に疎開

                   アトリエが空襲により焼失。これまでの作品のほとんどを失う

                   西荻窪に仮住まいの後、小金井市に転居、永住する

同  21年(1946) 日展審査員をつとめる。以降、日展や新日展の審査や運営に携わる

同  22年(1947)「サイゴンの夢」を発表

同  25年(1950)日本芸術院会員に推挙される

                   陶芸に興味を持ち始める

同  28年(1953)『絵画の見かたー画家と美学者との対話』(矢崎美盛と共著 岩波書店) 刊行

同  37年(1962) 日華協力委員会のメンバーに加わって訪台、蒋介石の肖像を描く

同  42年(1967) 逝去(享年72歳)

 

 

中村琢二(1897-1988)について

 中村琢二「セロを弾く男」

  • 中村琢二「セロを弾く男」


中村啓二の次男で研一の2歳年下の弟。長男研一が凛とした振る舞いと優しく指導的な性格であったのに対し、次男琢二はやんちゃで放逸、かんしゃく持ちで泣き虫だったといいます。

兄弟は仲むつまじく、小学校時代の夏休みに二人が汽車や船を乗りついで四国・新居浜の家族の所へ行く話や、兄弟げんかをして研一が大切にしていたハーモニカを投げつけて壊し、気丈な兄の目に涙があるのを見て、自らも傷つくなどのエピソードが残っています。

琢二は修猷館時代に油絵を描いていましたが、学生時代に画家を目指していたわけではなく、東大卒業後は病気療養で働かずにのんびりとしていました。そこへ研一が来て画家にならないかと誘い、研一が紹介した安井曽太郎の下で、画家の道を歩み始めます。琢二は人物画、風景画を中心に作品を描き続け、その画風は淡泊ながら色彩が爽快で、流暢で淀みのない画法が楽しく、多くのファンができました。兄弟の画風や性格の違いは、「兄研一は風が吹いても微動もせず屹立する巨木とすれば、弟琢二は風のままに揺れる柳のようである」とも例えられています。

研一・琢二兄弟は年老いてもなお仲の良い兄弟で、少年期に住んだ愛媛県新居浜の四阪島へ二人で旅行した記録などが残っています。

「私が絵描きとしてスタートし、今日あるのは、兄研一のおかげです。そればかりか、幼い日を思い返しても、いつも私は研一のあとについて歩んでいたと言えます」(西日本新聞連載「鎌倉だより」)という言葉から、研一をいつまでも兄として画家として尊敬していたことが伺えます。

 


  • 中村琢二の略歴

明治 30年(1897)中村啓二郎・トメキの次男として父の赴任地新潟県佐渡郡に生まれる

同  32年(1899)父の転勤で愛媛県新居浜に移住

同  39年(1906)祖父母や兄研一のいる宗像市南郷村に移住

                   宮田村尋常小学校(現南郷小学校)に転校

同  40年(1907)東郷高等小学校(現中央中学校)入学

同  44年(1911)県立中学修猷館2年に転学、兄研一と一緒の寄宿舎生活に入る 

                   兄や上級生の児島善三郎の影響でパレット会に入り、油絵をはじめる

大正  5年(1916) 第五高等学校(現熊本大学)入学

                   胃を悪くしたため休学、その後退学

同    7年(1918) 第六高等学校(現岡山大学)に入学

同  10年(1921)東京帝国大学(現東京大学)に入学

同  12年(1923)横井美代と結婚。留学中の兄のアトリエ(代々木)で新婚生活をはじめる

同  13年(1924)肺を悪くし入院

昭和  3年(1928) 兄に勧められ本格的に絵筆を握ることを決意

同  5年(1930) 兄の紹介で安井曽太郎に師事

                   二科展に「材木座風景」を初出品

同  8年(1933) 鎌倉市にアトリエと住居を新築して転居

同  11年(1936)二科展に2点入選を果たす。以降、一水会展、二科展、新文展、

                   日本国際美術展を中心に活動。日展審査員、新日展審査員も務めた

同  18年(1943)第6回新文展に「黄色いうちわを持つ婦人像」招待出品

同  25年(1950)第12回一水会展に「セロを弾く男」を発表

同  29年(1954)第10回日展に「首飾」を委嘱出品

同  31年(1956)第18回一水会展に「十和田の娘」を発表

同  32年(1957)第19回一水会展に「瀬戸内」を発表

同  33年(1958)第20回一水会展に「最上川の女」を発表

同  34年(1959)第21回一水会展に「麻生の女」を発表

同  36年(1961)第6回日本国際美術展に「東北の温泉」を発表

同  38年(1963)第7回日本国際美術展に「伊万里風景」を発表

同  45年(1970)第32回一水会展に「ソウルの丘」「ソウルの老人」を発表

同  56年(1981)日本芸術院会員に推挙される

同  62年(1987)第49回一水会展に「西伊豆」を発表

同  63年(1988)逝去(享年90歳)


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