更新日:2015年3月18日
中国の歴史書「魏志倭人伝」は、紀元3世紀頃の倭(わ=弥生時代終末期の日本)について知ることができる重要な史料です。ここに記された女王・卑弥呼(ひみこ)のいた邪馬台国はどこにあったのでしょうか。その頃の宗像に「国」と呼べる勢力は成立していたでしょうか。
邪馬台国論争の今
古代史上最大のミステリーといわれ、今なお多くの歴史ファンを魅了する邪馬台国論争。その所在地を巡っては九州説と畿内説が有力で、ことあるごとに火花を散らしています。
邪馬台国への道のりを巡っては「魏志倭人伝」の読み方に2説あり、放射式は九州説、連続式は畿内説に有利とされています。近年は、邪馬台国と同時代の宮殿跡が見つかった奈良県纒向(まきむく)遺跡の発見で畿内説が有利ともいわれますが、確定されたわけではなく、九州説は健在です。
ムナカタ国の可能性を探る
最近まで、私たちが住む宗像地域は、弥生時代の有名な遺跡がないことから、邪馬台国論争で注目されることはほとんどありませんでした。ところが、平成20年の田熊石畑遺跡(たぐまいしはたけいせき)の発見で、弥生時代中期(紀元前2世紀頃)に北部九州屈指の有力者集団が、宗像の地に存在していたことが分かりました。この勢力が約400年後の邪馬台国の時代に、ムナカタ国(仮称)を成立させたのでは、と考えることができるようになったのです。
「魏志倭人伝」に「ムナカタ国」など出てきませんが、別の名前で登場しているかもしれません。例えば、邪馬台国に至る国々のうち、金印で有名な奴国(なこく)は、福岡平野周辺でほぼ決まりとされますが、その次の不弥国(ふみこく)から意見が分かれ、糟屋郡宇美町や飯塚市とする説が有力視されています。
しかし、連続式読み方では、不弥国からは水行(舟で水上を移動すること)することになるので、それならば、海に面した宗像地域も候補に名乗りを上げてはどうでしょうか?次は投馬国(とうまこく)、その次が邪馬台国とあるので、もう少しで卑弥呼の後ろ姿が見えそうです。
「いせきんぐ宗像シンポジウム」で決着か!?
「邪馬台国とムナカタ国」をテーマとした「いせきんぐ宗像シンポジウム」を、9月7日(日曜日)13時から、宗像ユリックス・ハーモニーホールで実施します。
明治大学名誉教授で日本考古学界の重鎮・大塚初重(はつしげ)さんをはじめ、邪馬台国九州説の第一人者ミスター吉野ヶ里・高島忠平(ちゅうへい)さん、愛媛大学ミュージアム准教授で青銅器研究のホープ・吉田広さん、そして、海の道むなかた館の西谷正館長ら豪華パネリストが、比較文明学会会員で西南学院大学非常勤講師・板橋旺爾(おうじ)さんのコーディネートのもと、邪馬台国の謎とムナカタ国の存在した可能性について熱い論戦を繰り広げます。
(文化財職員・白木英敏)
注:「いせきんぐ宗像」は、田熊石畑遺跡の愛称
注:シンポジウムの申込方法など詳細は、市広報紙8月1日号などでお知らせします
このページに関する問い合わせ先
教育部 世界遺産課 文化財係
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601
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