概要
九州北岸から60kmに位置する沖ノ島は、古代祭祀遺跡の類い希な記録の宝庫であり、日本列島と朝鮮半島及びアジア大陸の諸国間の活発な交流の時期にあたる4世紀から9世紀末まで続いた、航海安全に関わる古代祭祀のあり方を示す物証である。宗像大社の一部となり、沖ノ島はその後も今日まで神聖な存在とされてきた。
沖ノ島全体が、地形学的な特徴と、豊富な考古学的堆積がある祭祀遺跡、そして原位置を保ったままの膨大な数の奉献品とともに、この島で行われた500年にわたる祭祀の在り方を如実に示している。原始林、小屋島・御門柱・天狗岩といった付随する岩礁、文書に記録された奉献行為、島にまつわる禁忌、九州及び大島から沖ノ島に開けた眺望、これらはみな、対外交流や信仰の独自性の高まりによってその後何世紀もの間に信仰の行為や意味が変容したにもかかわらず、沖ノ島に宿る神への崇拝が島の神聖性を維持してきたことを如実に示している。
宗像大社は、約60kmに広がる範囲に位置する三つの離れた信仰の場、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、九州本島の辺津宮から構成される神社である。これらは古代祭祀遺跡に関連付けられる生きた信仰の場である。宗像三女神に対する崇拝の形態は、主に社殿において行われる祭祀において今日まで引き継がれ、宗像地域の人々によって守られてきた。大島の北岸に建てられた沖津宮遙拝所は、「神宿る島」を遠くから拝むための信仰の場として機能している。沖ノ島へと続く海を見渡す台地上に位置する新原・奴山古墳群は大小の墳丘によって構成され、沖ノ島に宿る神を崇拝する伝統を育んだ宗像氏の人々の存在を証明する。
登録基準
評価基準(2)
「神宿る島」沖ノ島は、航海安全のための祭祀が行われた島で捧げられた、多様な来歴をもつ豊富な出土品によって、4世紀から9世紀の間の東アジアの国家間の重要な交流を示している。奉献品の配置や祭場構成の変化は祭祀の変遷を証明し、それはまた、アジア大陸、朝鮮半島、日本列島を拠点とする国々がアイデンティティの感覚を発達させた時期に起こり、日本文化の形成に本質的に貢献した活発な交流の過程の性格を反映するものである。
評価基準(3)
神聖な島、沖ノ島は、古代から現在まで発展し、継承されてきた神聖な島を崇拝する文化的伝統の類い希な例である。注目すべきことに、沖ノ島に保存されてきた考古学的遺跡はほぼ無傷であり、そこで行われた祭祀が4世紀後半から9世紀末にかけての500有余年にどのように変化したかの年代順の記録をもたらしている。これらの祭祀では、大量の貴重な奉献品が島の違う場所に納められており、祭祀の変化を証している。沖ノ島での直接的な奉献は9世紀に終わったが、島に対する崇拝は、大島や九州本土から沖ノ島へと開かれた眺望によって例示される「遙拝」とともに、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、辺津宮という宗像大社の三つのそれぞれの信仰の場における宗像三女神への崇拝という形で継続した。
真正性
「神宿る島」沖ノ島と他の7つの構成資産は、その顕著な普遍的価値を表現する価値とプロセスを示すために必要なすべての属性を含んでいる。この資産は、活発な海を越えた交流が行われた期間に出現し、宗像三女神への崇拝として続いている、航海安全のために神聖な島を崇拝する伝統の証としての諸特徴を確かに完全に表現している。これは祭祀の慣習や意味の変化を経ながらも、沖ノ島の神聖性を保ったまま、今日まで伝承されてきた。資産は良好な状態にあり、洋上インフラやクルーズ船の往来の増加による潜在的な影響を慎重に考慮する必要があるものの、管理放棄もなく適切な管理がなされている。
完全性
骨太で豊富な沖ノ島に対する考古学的調査と研究は、資産の顕著な普遍的価値の信頼できる証拠である。時を経ても変わらぬ祭祀遺跡の位置、その分布、そしていまだに豊富な未発掘の奉献品は、将来の研究と資産の価値のより深い理解のための機会を提供する。
制限や禁忌の存在は、神聖な島としての島の雰囲気を維持するのに役立っている。3つの島について、および日本国内や周辺諸国における航路についての調査研究の継続は、資産の真正性を完全に表現するための裏付けとなろう。